『戦略的』人生設計

発達障害を生き抜く

小説 ある哲学徒の憂鬱

若者、彼の生活の上に暗雲あり。当座だけのメランコリーならまだよい。しかし普段なら直ぐに消える憂鬱が腹の底に沈澱するような、そんな重苦しい物が確かにそこに、在る。

 

昨日に考えていた哲学が原因だろうか。妙に腑に落ちたのが、これがいけなかった。思想、思い考えるということは僕にとって逃げ場でありそれ自体が目的となっていた。

 

その疑問が解消されてしまった。正確に言えば解決の目処が立ってしまった。それが問題となっていつまでもその喪失感が僕を支配していた。

 

だが、僕は哲学徒でもあってゲーマーでもあった。その哲学に検証を施したくなった。筋道が分かっているゲームが昔から好きだった。

 

人生というゲームをどう生きるか。今この時を持って哲学徒はゲーマーへと変貌した。無力な哲学徒、考える葦に足が生えた。

 

大いに盛り上げて頂きたい!偉大なる革命家は小説を書くという芸術行為を通して現世で成功することを願い、たった今哲学者であることを辞めた。それを誰が否定できようか。誰が石を投げられるだろうか。

 

読者諸君、私は今無理をしている。本当ならば、いつまでも真理を追いかけて苦しみ抜きたいものだ。しかし、そのメランコリーを追求するのにこの現代日本の社会構造はあまりに不向きであり、辛いことである。

 

しかし、シンプルに考えよ。賢者は愚者と同じステージに立つ演者だが、そこに至るまでに賢者はどれだけの苦労を持ってそこに辿り着いたことだろう。辛い回り道もあったろう。

 

そこの舞台に立つことで、彼は人間としての社会との相対関係をようやく持った。メランコリーを持って人間になり直した。

 

今賢者は生まれ変わった。そう、愚者になり直すことにより、新たな問題解決の視座を得たのだ。

 

決して、君は芸術を軽視したのではない。苦しみ抜いた上での君の決断を誰が非難できようか。誰が君の人生を否定できようか。

 

そう考えると、この世が少しはマシに思えないかい。読者、いや天才諸君よ。

有名YouTuberはなぜ食えなくなったのか?

著者情報:限界法学部大学生。22歳。カス。

最近、昔有名だったyoutuberが食えなくなってきているという話をよく耳にする。

僕も厨房の時、禁断ボーイズとかラファエルめっちゃ見てたから、「うわ〜まじかー」と大学生の今思う。

まぁ、実際口だけであって本当は安泰な人もいるかも知らないがyoutubeバブルなるものは静かに終焉を迎えようとしているらしい。

では、なぜ一部のyoutuberは淘汰され、食えなくなっていくのかをマックス・ヴェーバーと一緒に考えてみよう。

ヴェーバーは、「長期間、資本主義の倫理的原則に反して行動すれば必ず経済的淘汰を受けねばならないし、それでもなお適応しないならば必ず失業者として世に投げ出される」と記述している。

「???」な皆さんはとりあえず、労働とか市場原理を無視してズルして稼ぐといつか天罰が下るよねっていう認識でいいと思う。

このようなことをマネジメントの著者として有名なドラッカーも似たようなことを言っており、企業、個人の営利活動は「社会的責任」を持たなければいけないという主張を持っていた。

つまり、社会に対して責任を持たないで、自分の利益だけ考える者は必ず市場からさよならバイバイされるということだ。

今ちょうどESG投資とか、こういう原則に当てはまる風潮が来てるよね。環境とか社会全体に配慮してない企業には投資しませんよ的な。

ヴェーバーは続けて、およそ厚顔な態度に終始する実業家は役に立たず、‥‥どのような時代においてもそのような海賊的稼ぎ方が存在したことを記述している。

これはyoutuberに限らず、人に迷惑を掛けるインフルエンサーや配信者、人を騙くらかして稼ぐ情報商材屋なども同じと言える。全ての人が悪いわけではもちろんないよ。

もちろん、資本主義のウェブというのは複雑に絡み合っているものであり、必ずしも全ての海賊が淘汰される訳ではない。しかし原則を外れた営利活動はどこかで限界を迎える可能性が高いと言えるだろう。

だからYouTube以外に仕事を持ってなかった人たちは続々とニートになる。

またヴェーバーは、職業としての学問において、「学問自体には限界があり、スキルを磨いて日々の与えられた職業に勤しめ」

と大学生に説教しており、福沢諭吉は、学問のすゝめにおいて「学問が人の上に人を作るけど、とりま学ぶ時間がない農民や町民は実用的な学問、つまり簿記とかの実学を学んで働こうね」と言っており、

「単なる有能な人になるのではなく、そこには倫理的原則が無ければならない」

みたいなことを言ってる。

有能無能で人を分ける風潮結構あるよね。正直者がバカを見るとか。色んな視点から見たら有能な人も無能だったりするのにね。逆もしかり。

僕はsnsやってないしYouTubeも最近見てないからあんま分からんけど。

ドラッカーに至っては、

「自分自身を徹底管理して、自分が自分という会社を管理しろ」

あなたが今、起業するとして生活すべてYouTube一本で持たせるのは無理でしょ。

そゆことよ。

あと、「あなたが苦手なことをするのは周りの生産性を落とすから辞めろ」とまで言っている。怖いね。得意なスキルを身につけて働こうねっていう事を言ってる。

つまりこの人たちは、「楽して稼ぐなんて夢見んじゃねぇ、学んで行動に移せ」と言っているのだ。

まとめると、ここまでで俺が言いたいのは、「資本主義の原則は吝嗇的生活を良しとして労働してきたプロテスタンティズムの精神と密接に繋がっており、それは今の私たちにも言えるよね」

「それはヴェーバーだけの話ではなく、普遍的な市場原理であって世界各国で確からしいよね、僕らも夢見ないでスキルつけて働こう」

という事だ。

ちなみにアメリカ資本主義の父であるフランクリンもさっきのやつと同じような事を言っている。ここまで世界各国で同じこと言われると怖くなるよね。

俺自身が現在、法学部所属の学部生であり、社会学に関しては完全独学なので、知識を自在に操れる立場に無いのは許してほしいが、多分そこまで外れたことは言ってないと思う。でも多分うちのゼミの教授が見たらキレる。クドクドクド

なので鵜呑みにはして欲しくないが、ぜひ皆さんの思考材料になればと思う。

それでは。

YouTubeで稼ごうとするな。継続で稼げ

ブルーオーシャンとはビジネス用語で、誰も手をつけてない領域を指す。対義語はレッドオーシャンだ。例えば、5年前はYouTubeブルーオーシャンだった。どんなくだらない動画でも有名になれたし、今よりもプラットフォーム全体の参入障壁が低かった。

 

今は芸能人や才能あるクリエイターの参入によりYou Tubeで有名になるのは難しくなった。 であるにも関わらず、未だに底辺YouTuberは再生数が伸びないのに2年間、3年間とずー-っと動画を出す。もちろん収益は0。継続していたらいつか絶対に成果が出るならそれでいいが、水脈のないところで井戸を掘ってもいつまで経っても水は出てこない。

 

それどころか、自分の掘った井戸が深すぎてもう外に出てこられなくなるかもしれない。ブルーオーシャンは案外近くに転がっているのに、レッドオーシャンで戦おうとするのは愚の骨頂だ。 今から君にだけ特別に最高のブルーオーシャンを教える。この領域で戦えば、君は食いっぱぐれることはないし、有名YouTuberと同じくらい稼げる。

 

その領域とは「継続」だ。どういうことか説明をする。継続というのは、「一つの行動を続ける」ということだ。人は基本的に継続できない生き物である。よく漫画とかで子供が3日坊主で日記をつけるのをやめたりして親に怒られるシーンがあるが、親もたいてい幼少期に何も継続したことがないことが実は多い。人間は基本的に現状維持を求めるため、変化を恐れる。

 

自分が良い方向に変わろうとすると途端に怖くなる、もしくは隣の芝生が青く見える。うろうろしてる間に、最終的に何も成し遂げられないで人生を終える人がこの世の中とても多い。 そうして失敗体験を積んで、継続が難しいものだと分かると、人は継続をせずにラクして成功しようとする。

 

むろんラクして成功できるはずがないから諦めて人は会社でコツコツ働く。そうして日本中の成功者の世界大会が開催されるTikTokやインスタ、Twitterで、インフルエンサーの華々しい生活を見ると、どうやらプログラミングが稼げると聞いて学習をスタートするが継続力のない人は持って5日で諦める…といった具合に負の連鎖にハマるのだ。

 

実は継続は難しいことではない。適切な心がけを守り、モチベーションを管理すれば容易にできることである。 先ほどもお話ししたように、習慣を1年継続できる人は少ない。プログラミングも1年継続して学習できれば自分で仕事を取ってきて月5万は稼げる。

 

月5万稼げれば会社に通わなくとも節約生活をすれば、人間関係で自分にストレスをかけずに暮らせる。YouTubeでも最近、3か月新しいスキルを勉強したらどうなるのかという動画が大きく再生回数を伸ばしている。それだけ継続には需要があり、みんなができないことである。結局、先の見えない現代ではコツコツ型の人間が有利なのである。

 

習慣化のための、次の記事に続く。

成功者になるには結局どうすればいいの?

世の中、確固たる成功ルートがあればそれに沿っていくだけで楽に成功できるのに、と俺は受験生時代から思っていた。大学受験も、これをやれば絶対受かるという筋道があれば多分みんな勉強する。

 

大学受験予備校の武田塾が全国でシェアを大きく広げたのには「大学までの参考書ルートを指し示す」というところに要因があったと僕は考える。人はゴールと道のりが分かればどんな課題も解決できるが、人生には「こう進めば幸せになれる」という明確なゴールまでのルートがない。東京大学を出てから出世できない、もしくは幸せになれない人がいるのはそのせいだ。

 

 

ここで一つ提言がある。たんなる自己啓発本の域で考えるなら従来のように「社会的に」成功する方法を考えればそれで十分だった。しかし俺の周り、あるいはこれを読んでる君の周りにはお金があっても幸せになれない人がいる。

 

 

芸能界でいっぱいお金を稼いでも、世間の誹謗中傷に傷ついて自殺する芸能人とか。いくらお金があったとしても自分の価値観に合っていない生き方ではストレスが溜まるし、自分の思考のメタ化ができていないと本当の意味での「内面的な」幸せをつかむことはできないということだ。

 

よく、内面だけの幸せを求める人がいる。スピリチュアルに耽溺する人、売れないミュージシャンを続けて自己満足のままジジイになって死んでいく人、お金がなくても私は人生幸せと言い張るババア。どう生きようと個人の自由だが、俺の考えはこうだ。

 

 

「社会的に」成功を収め、「内面的に」も成功を収められる人間が真に幸せな人間である。俺はこう考える。貧乏暇なしということわざは良く言ったもので、お金がないと内面のケアをしている暇はない。これら2つの成功のバランスを調整することが俺の人生の目標であり、これを読んだ君にもぜひ参考にしてほしい。

 

 

しかし、別にこの本は君に向けて書いたものではない。俺が今後人生を進む上で迷ったときにこの本を読んで方向を正すための羅針盤のような雑記である。だから、俺はこの本の中で少しも自分をきれいに見せようとは思わない。なぜなら、僕もこの本をずっと読み返し続けるからだ。だから、適当なことは一切書かない。

 

 

ただ、これを読んでいる君にも気づきはあるかもしれない。参考にするもよし、素通りするもよし。 内面を磨く、美意識を高める理由は他にもある。今の時代ものを売るスキル、知識があるだけの人間はビジネスにおいて生き残れないと俺は考える。これから先、マーケティングの戦略を考えるデザイン思考と、商品の美意識を求めるアート思考の両方が必要となるだろう。

 

 

ティージョブズは、Appleという会社を大きくするためのデザイン思考とiPhoneという、人々をいい意味でも、悪い意味でも惹きつけた設計の元になるアート思考の両方を持ち合わせていた稀有な人間である。別ベクトルから見ると、台湾のプログラマーであるオードリー・タンもデザイン思考とアート思考を体現している人物であろう。プログラマーとして、思想家としてそれぞれ成果を挙げており、人格は国内外から高く評価されている。

 

 

変化の多い時代に生きる僕たちは物質的な快楽だけでは幸せになれない。さぁ、一緒に自分にとって何が幸せなのか考える旅に出よう。ちなみに明日になったらこの本の内容すべてと正反対のことを俺はしているかもしれない、その辺はまたあとで語ろう。

 

次の記事に続く。